よくある質問

歴史

お問い合わせフォームへのご記入をお願いいたします。
お名前と学校名、E-mailアドレスに加え、「お問い合わせ内容」に、説明会の内容(科目、教科書名等)、時間、会場設備、人数等をご入力いただいた上でお問い合わせください。弊社社員を講師として派遣いたします。 

 従来は約440万年前のラミダス猿人の化石が最古とされてきましたが、2001年にチャドで発見された約700万年前の猿人、トゥーマイ猿人の存在が学界で認められるようになってきました。そのため、平成25年度版教科書より、新しい学説に合わせて修正しています。なお、「トゥーマイ」とは、現地語で「生命の希望」を意味するそうです。また、ケニアでは約600万年前の猿人とされる「オロリン=トゥゲネンシス」が発見されるなど、新たな化石人類の発見が相次いでいます。
 人類の直立二足歩行は、アフリカのサバンナ(草原)で生活していくための適応の結果として、直射日光を浴びにくく、周囲を見わたしやすく、高い位置にある食物に手が届くようになるために変化していった、などと考えられてきました。しかし、近年発見されている人類の化石は、いずれも比較的湿潤な森林地帯で生活していたことが確認されていて、従来の説を考え直すように迫られています。
 また、人類の起源はアフリカ大地溝帯の東側といわれてきましたが、そこから2500km以上離れたチャドでこのような発見があったことで、仮説を根底からくつがえす結果になりました。なお、トゥーマイ猿人の腰や足の骨は報告されていないため、確実に直立二足歩行をしていたかどうかは確認されていません。また、年代の測定法にも異論が唱えられており、議論の余地はまだ残されています。 

 弥生時代については、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの600年間ととらえています。その一方で、この記述に注釈をつけて、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀とする新しい研究成果も紹介しています。これまで通説となっていた、「弥生時代のはじまり=紀元前300年」は、1960年代に、土器編年(土器を各地域ごと、各型式ごとに前後関係に分類・整理し、年代順に配列すること)や遺跡から出土した中国の青銅器をもとに割りだされた年代に、弥生前期のコメや貝を炭素14年代法(遺物の中の炭素の放射性同位体である炭素14の量から年代を推定する方法)で測定したデータ結果を加味して出された説でした。2002年、弥生時代のはじまりを紀元前10世紀ごろであると発表したのは、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)です。歴博は最新のAMS−炭素14年代法などによって測定した結果、九州北部の弥生時代遺跡から出土した、土器に付着する炭化物(コメのおこげ)や木杭は、紀元前900~800年のものであり、紀元前10世紀後半に九州北部で本格的にはじまった水田稲作が、約800年かかって日本列島を東漸したとの説を展開しました。水田稲作が九州北部から各地に広がるのに要した年月は、例えば瀬戸内海西部地域までで約200年、摂津・河内までで300年、奈良盆地までで400年、中部地方には500年、南関東には600~700年、東北北部には500年であると推定されますが、水田稲作が、きわめてゆっくりと各地に広がっていったことが、ここから分かります。
 こうしてみますと、従来のように「弥生時代のはじまり=紀元前300年」などと、ある一点で区分すること自体、無理があると思われますが、教科書本文では、通説に従った紀元前300年と記述し、注釈で紀元前10世紀という説を示しました。これは現時点では様々な議論があり、また地域によって差があることを踏まえた記述であることを、ご理解いただきたいと考えております。 

 「ヤマト王権」は、3世紀後半以降から奈良盆地に成立した、のちの大王を中心とする豪族たちのゆるやかな連合勢力のことをいいます。この政治体制を示す用語として、「大和朝廷」が一般的に用いられています。しかし、「朝廷」という言葉には、天皇と貴族による中央集権政治という意味合いが含まれることが多く、成立当初、まだ「朝廷」という語にふさわしい政治制度をもっていなかったこの豪族の連合勢力に、「朝廷」を使用することは学界でも疑問がもたれるようになりました。このため「朝廷」を用いずに、王と諸豪族の貢納・奉仕を媒体とした当時の人間的関係を踏まえて、「王権」という語を用いるようにしました。
 なお、ヤマト王権は、中国大陸との関わり合いなどを通じて、しだいに制度を整え、8世紀初頭の律令制度の施行でその制度は一つの到達点をむかえました。そのため、弊社では、この時期から「朝廷」という語を使用するようにしています。
 次に「ヤマト」王権の「ヤマト」というカタカナの表記についてですが、「ヤマト」は現在の奈良県地域を示す地域名称として用いられており、この政治体制が存続した時代には、倭・大和・大養徳などと様々な漢字で表記されてきました。その一方で、「大和」という国名は、8世紀初頭から前半の『古事記』『日本書紀』では使用されておらず、8世紀中ごろに施行された『養老令』から、広く「大和」国と使用されるようになりました。さらに、「倭」は、中国で日本の総称として用いられていました。そのため、地域名称としての「ヤマト」を表す場合、国名の「倭」や「大和」との混同を避けるために、カタカナでその音を表しています。
 なお、高等学校の日本史教科書でも、「ヤマト」とカタカナで表記されております。また、「朝廷」の文字も使われず、7世紀後半までは、「政権」「王権」で表記されています。 

 かつての教科書の「聖徳太子」の記述は、推古天皇の摂政として、十七条の憲法や冠位十二階の制定、仏教の交流や遣隋使の派遣など、重要な政策を一手に担う革新的な政治を行った人物として記述されていました。この「聖徳太子」の事績は、奈良時代前半に成立した『日本書紀』に依拠しており、教科書では明治期に近代国家の体制や歩みと重ねて顕彰して記述されるようになりました。
 しかし、「聖徳太子」の記述の根拠となる史料の時期を分析すると、『日本書紀』は奈良時代初期、法隆寺関連の史料は、確実に年代が確認できるのが奈良時代中期になります。つまり、聖徳太子の事績の根拠となる史料は、彼の死後1世紀を過ぎた史料であるといえます。また、「聖徳」とは厩戸王の没後におくられた名であること、また「太子」は「皇太子」の意味ですが、厩戸王存命時に、「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低いことも、現在の研究では分かっています。このような状況から、「聖徳太子」の存在自体を否定する説もでています。しかし、その記述内容を分析し、ほかの史料と合わせてみると、「聖徳太子」のモデルとなった「厩戸王」といわれる実在の人物がいたこと、その人物が、奈良県斑鳩の地に斑鳩宮や斑鳩寺(法隆寺)を営むほどの有力な王族であったこと、中国の『隋書』などからも倭国に中国の太子に対応するような有力な王子がいるとみていたことなどは確実にいうことができます。そのため、現在では、推古朝において、蘇我馬子とともに厩戸王が政治を行ったというのが有力となっており、弊社でもその考えのもと、「聖徳太子(厩戸王)」と表記しています。
 同様に、宮内庁侍従職が保有する「唐本御影」は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画で、これまで高額紙幣の肖像画や教科書でも「聖徳太子」として使用されていました。そのため、この画像が「聖徳太子」というイメージを人々に強く残しました。しかし、この絵と「聖徳太子」とを関連づける当時の史料がないこと、絵の画像の研究から、製作年代は早くとも8世紀(奈良時代)と考えられることなどから「伝聖徳太子像」として表記するようになりました。
 「聖徳太子」の研究は、聖徳太子自体が、信仰の対象であり、史料の記述も信仰と実際の事績が混在しているため、歴史的な「謎」につつまれた部分が多いのも事実です。しかし上記のような研究成果を反映し、高等学校の教科書だけでなく、一般の学術書にも「厩戸王」と記載する傾向となっています。
参考文献:大山誠一 『〈聖徳太子〉の誕生』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館 1999年
     熊谷公男 『大王から天皇へ』(日本の歴史 第03巻)講談社 2001年 

 鎌倉幕府が開かれた年は、「いい国つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせがあるように、源頼朝が征夷大将軍となった1192年とする説が広く知られていました。しかし、近年では鎌倉幕府を構成する組織が1180年から徐々に設置されるなど、1192年までの間に段階を踏んで整えられていったと考えられています。1192年は成立ではなく、鎌倉幕府という組織の基本形態が名実ともに「完成した」という見方が優勢になっています。
そのため教科書では、このような近年の見方に基づき、年表で平安時代と鎌倉時代の境界を斜め線で表すなど、鎌倉幕府の成立年を単独の年に求めるのではなく、段階を踏んで「完成した」ととらえています。
参考までに1180年から1192年の鎌倉幕府に関するおもな動きは以下の①~⑥のようになっています。
①1180年:頼朝が東国支配を樹立(富士川の戦いでの勝利など)し、鎌倉を本拠地に侍所を設置した
②1183年:朝廷より頼朝の東国支配権を承認する宣旨が下された
③1184年:公文所(のちの政所)・問注所を開設した
④1185年:守護・地頭を設置した
⑤1190年:頼朝が右大将(右近衛大将)、日本国総追捕使・総地頭となった
⑥1192年:頼朝が征夷大将軍となった

 『国史大辞典3』(吉川弘文館)によると、鎌倉幕府という呼称が学術上の概念として用いられはじめたのは明治20年ごろからです。征夷大将軍を首長とする政権を幕府とよぶようになったのは江戸時代後期からとされており、「○○幕府」という呼称は鎌倉・室町時代の武家政権が続いたことによって成立した呼称と考えられています。
 このように、今日の「征夷大将軍になる=幕府が成立する」という考えは江戸時代後期に誕生し、鎌倉時代にはなかった考え方であること、また実質的な組織はそれ以前から成立していたことなどから「征夷大将軍となる(1192年)=幕府が成立する」とは考えられなくなっています。
 また、元来中国の古典で「将軍の陣営」を意味する「幕府」という言葉が、征夷大将軍とセットで使用されるようになった背景には、「幕府」が右近衛大将の中国名であり、右近衛大将に任じられた頼朝がやがて征夷大将軍になったことに由来すると言われています。
参考文献:国史大辞典編集委員会『国史大辞典3 か』 吉川弘文館 1983年 

 源頼朝像の肖像というと、かつては京都府の神護寺にある国宝「伝源頼朝像」が教科書にも大きく取り扱われる定番でした。その根拠としては『神護寺略記』に、似絵の名手であった藤原隆信による後白河法皇像とともに、源頼朝像、平重盛像、平業房像、藤原光能像が収められたと記録されていることが挙げられます。このうち法皇像は室町時代の写しのみとなり、業房像は現存していません。そして、神護寺に現存する似絵3点が伝統的に「源頼朝」「平重盛」「藤原光能」の肖像と伝えられてきました。
 しかし、1995年に美術史家の米倉迪夫氏によって、この「伝源頼朝像」は足利尊氏の弟「足利直義」の肖像であるという説が提起されました。米倉氏の論点は、①『神護寺略記』と「伝源頼朝像」を結びつけるのは根拠に乏しい。②3像には作風の微妙な違いが認められ、そこから「伝源頼朝像」と「伝平重盛像」は最初のセットで、ついで「伝藤原光能像」が加わったと考えられる。③足利直義願文によると1354年に神護寺に尊氏と直義兄弟の像が奉納され、この際に似絵2像が奉納されたと考えられる。④「伝平重盛像」は、宮内庁所蔵の「天子摂政御影」にみえる平重盛の肖像とは顔貌が異なる一方で、「伝平重盛像」が「足利尊氏像」に近似している。⑤「伝藤原光能像」は、等持院像の「足利義詮像」に近似している。⑥「伝源頼朝像」と「伝平重盛像」の太刀の柄に桐紋の痕跡があるが、これは足利氏の家紋の一つである。⑦様式的にも、この時期の似絵「夢窓疎石像」との造形的共通性が指摘できる、というものです。これらに加え、絵画史において、武士の肖像画が鎌倉末期から隆盛をむかえるにもかかわらず、それよりも前の鎌倉初期にいきなりその傑作が登場する矛盾が指摘できます。また、科学的分析でも、この3像に使用されている絵絹の素材が、南北朝時代のものであるという指摘もなされるようになりました。これらの状況から、神護寺の「伝源頼朝像」は、足利直義とする説が有力になっています。
 では、源頼朝の顔貌を示す像はほかにないのかという視点で史料を検討した結果、甲斐善光寺に伝わる「源頼朝像」が、唯一当時の源頼朝の顔貌を示す坐像であることが分かってきました。その証拠は、この像の胎内に記された銘文です。銘文には、この像が北条政子の命により源頼朝の死後まもなく造られたと解読できました。また、現在の胴部分は火災によって本来の胴の部分が焼失後に修繕されたものということが分かりました。しかし、これにより顔の部分は鎌倉初期の作成と特定することができました。また、同じく甲斐善光寺には源実朝坐像が所蔵されていますが、この顔貌は、京都国立博物館所蔵の「公家列影図」の実朝の顔貌と近似しています。以上のことから、弊社では甲斐善光寺の坐像を、源頼朝として紹介しています。
参考文献:黒田日出男 『源頼朝の神像』(角川選書490)角川学芸出版 2011年
     黒田日出男 『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書509)角川学芸出版 2012年 

 九州の福岡市を「福岡」と名付けたのは戦国大名の黒田長政です。福岡藩の藩祖の黒田長政は、関ヶ原の戦いの戦功により豊前国中津から大幅加増されて筑前国に転封となりました。黒田氏は、黒田長政の曾祖父にあたる黒田重隆の代まで備前国邑久郡福岡村(現在の岡山県瀬戸内市長船町)にいましたが、1601年に長政が筑前国那珂郡警固村福崎(現在の福岡市中央区)に城を築いた際、ゆかりの地である備前の地名にちなんで、この地を「福岡」と名付けました。教科書などに掲載されている『一遍聖絵』が描かれた鎌倉時代には、現在の福岡市に「福岡」の地名はまだなく、有名な福岡荘の絵は備前国の福岡について描かれたものになります。
 現在の福岡市は、江戸時代には、那珂川を境にして西側が「福岡」、東側が「博多」とよばれていましたが、「福岡」は武士のまち・行政都市として、「博多」は町人のまち・商業都市として機能分化し、「双子都市」として発展しました。1889(明治22)年に福岡市が誕生しますが、こうした歴史を踏まえて、このとき市名をどうするかで「福岡派」と「博多派」が激しく対立します。翌年、市議会に「市名変更」の議題が提出されましたが、採決では同数となります。最終的に旧福岡藩の武士出身の議長が投票した結果、わずか1票差で「福岡市」となりました。 

 以前の弊社の教科書では、「栄西」には「えいさい」のフリガナのみを振っていました。では、なぜ現在「ようさい」と「えいさい」の2つのフリガナを併記しているかといいますと、栄西が開創した京都最初の禅宗寺院「建仁寺」において、学僧・東晙(とうしゅん)があらわした栄西の『興禅護国論』の注釈書に「イヤウサイ」と読みが振られていることから、建仁寺では栄西を「ようさい」と読んできたことに基づいております。「えいさい」の読みも間違いではなく、研究書や歴史辞典などにおきましても、両方の読みがあることが示されており、弊社においても、建仁寺の「ようさい」という読み方を文化として尊重したうえで、両方のフリガナを併記する形をとっています。 

 弊社の教科書が、鎌倉時代と室町時代の産業を、両時代で分けずにひとまとめにして扱っている理由は、鎌倉時代と室町時代の産業構造において見られる類似性と連続性の強さにあります。例えば、農業の発達を見てみますと、鎌倉時代に畿内の一部で行われ始めた二毛作が、室町時代には西日本を中心に広がっていくことがあります。施肥についても、鎌倉時代には草木灰中心だったものが、室町時代になると、より養分が豊富な人や家畜の糞なども使用され始めて多様化していきますし、灌漑技術においても、鎌倉時代に登場した水車が、室町時代になると、その利便性ゆえに広く普及していきます。このような両時代にまたがる類似性や連続性は、農業面においてのみならず、貨幣の流通、定期市の発達、運送業者の活躍、手工業の発達など、商業面や工業面においても、共通して見られることから、鎌倉時代と室町時代を含むこの時期の産業については、2つの時代に分割してとらえるのではなく、一連の流れとして、ひとまとまりでとらえるべき内容と判断しております。
 さらに、現行学習指導要領においては、古代・中世・近世・近代・現代という、より大きな時代のくくりで各時代の特色をとらえることが歴史的分野の学習目標として掲げられております。上記の学術的側面に加え、この学習指導要領における学習目標の指針も踏まえまして、教科書におきましては、中世の産業のようすの全貌とその特色について、より適切かつスムーズに理解していただけるよう、鎌倉時代と室町時代とに分けずに、まとめて扱わせていただいている次第です。また、分割して扱うことで生じる内容の重複を防ぎ、先生方のご指導や生徒の皆様の学習上の煩雑さを排除することも意図しております。 

 江戸時代の幕府直轄地は、当時は単に「御領」「御領所」とよばれていたようです。幕府直轄地に対して、「天領」という呼称が生まれたのは明治時代です。幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」とよばれたのがはじまりです。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになったため、当時からこの名でよばれていたかのように定着するようになりました。
一方の「幕領」「幕府領」も、当時の呼称ではありません。しかし、藩領と区別して幕府の領地であるということが明確に分かるため、弊社では「天領」ではなく「幕領」という表記を採用しています。 

 江戸時代の外交・貿易政策の特徴を示す言葉として、「鎖国」という言葉が使われてきました。そもそも「鎖国」という言葉は、江戸初期から存在した言葉ではなく、江戸後期の蘭学者の志筑忠雄が、オランダ商館医として日本に滞在したケンペルの著書『THE HISTORY OF JAPAN(日本誌)』オランダ語版の付録第6章を翻訳する際に「鎖国」という造語を1801年に作ったのがはじまりです。そのため、3代将軍家光のときに、キリスト教禁制政策の一環としていわゆる「鎖国令」が出されますが、「鎖国」という言葉が当時から使われていなかったことには注意しなければいけません。19世紀ごろから、ロシアやアメリカなどがさかんに通商を迫るようになって来た際に、「鎖国」が伝統的な外交政策であると幕府が断る理由として使用するようになってきたといわれます。このような状況から、「鎖国」という言葉が、外交・貿易統制当初から使われた言葉ではないため、「 」を付けています。
 また、「鎖国」という言葉がもつ、「国を鎖す」という受動的・否定的なイメージと、江戸時代の外交・貿易の実態とは違うという点からも、「 」を付けています。とくに1980年ごろから、幕府の外交・貿易統制を東アジアの伝統的な対外政策である「海禁」として積極的にとらえる考えがでてきました。つまり、幕府の外交・貿易は、長崎を基軸にしながら、松前・対馬・薩摩のそれぞれの藩に対外関係の口を担わせ(いわゆる「四つの口」)て、外交・貿易統制を行っていたという考えです。これは、幕府が東アジアにおけるキリスト教禁制や欧米の勢力争い、中国の明から清への交替などの状況を踏まえた対外政策としての貿易統制を行ったというとらえ方をしているのが特徴です。幕府自身も、17世紀末ごろから「海禁」の言葉を使用しています。しかしながら、この言葉も江戸初期から使われた言葉ではありません。
 このように江戸幕府の外交・貿易統制を「鎖国」のみで説明するのは、断片的であるといえます。しかし、教科書で長く使われた用語であり、江戸幕府の貿易の実態とともに使用すれば、江戸幕府の対外政策の独自性を象徴的に示せる言葉でもあります。このため、「  」を付けた「鎖国」と表現して掲載しています。 

 江戸時代初期には、明治以降の近代国家のような明確な国境線があったわけではありません。歴史的に、中国、朝鮮、琉球、蝦夷地はほかの国という認識があり、「四つの口」として外交・貿易統制を行いました。ただし、蝦夷地は、ほかの3つのような政府が存在しませんでした。そのため、松前藩のアイヌの人々への支配の強化という形で、幕府による蝦夷地の支配体制が確立していきます。
 18世紀後半になると、ロシアが毛皮貿易の拠点づくりのために積極的にオホーツク海沿岸に進出し、日本に通商を要求してきます。この際、ロシアも幕府も「蝦夷地」は日本のものとして扱っています。しかし、その境界はどこにあるのかは未確定でした。同じころ仙台藩士の林子平がまとめた『三国通覧図説』の地図でも、蝦夷地は日本と意識されていますが、その形は不正確です。その後、幕府は蝦夷地防備のため、伊能忠敬の測量隊の派遣や、間宮林蔵などによる蝦夷地探索を展開していきます。この中で幕府は、ロシアに先んじて国後島や択捉島を発見・調査し、遅くとも19世紀はじめには実効的支配を確立しました。ロシア側も自国領土の南限をウルップ島と認識しており、幕府とロシアによって1855年に結ばれた日露通好(和親)条約により、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。一方で、樺太は両国の雑居地とされました。近代国家の「日本」がロシアと正式な国境を画定するのは、1875年の樺太・千島交換条約によってです。これによりウルップ島以北の千島列島を日本領とするかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。こうして樺太と北海道の間に国境が画定しました。 

 日露和親条約が結ばれたのは、安政元年12月21日です。歴史学では慣例として、安政元年を1854年として表記してきました。しかし、安政元年12月21日を厳密に西暦に換算すると1855年2月7日になります。2013年に文部科学省が策定した「教科書改革実行プラン」に基づき、「教科用図書検定調査審議会」が了承した教科書記述の検定基準の改正案では「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には、それらに基づいた記述がされていること」となりました。こうしたことからも、弊社では、条約の日付や名称は外務省の表記に統一するようにしております。外務省では、条約の調印は、相手国との共通の日付の確認が重要であるため、外交の基準である西暦の表記で統一しています。また、条約名も、日魯通好条約(日露和親条約)と表記しています。そのため、この表記に統一しています。ただし、「魯」の文字は、義務教育においては基本的に使用しませんので、「露」の文字を使用して、日露通好条約と表記しています。同様に、1895年の下関条約も、外務省では、日清講和条約という表記が優先して使われていることから、こちらも日清講和条約(下関条約)と表記しています。 

 「古代の蝦夷(えみし)がアイヌそのものである」、あるいは「蝦夷のすべてがアイヌの祖先である」とするのは、論争中ではあるものの、現在の研究ではほぼ否定されつつあります。
奈良時代に「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々は、東北に住んで、中央と著しく生活・文化様式が異なる人々のことであり、本来は人種的な区別をもたない、きわめて文化的・政治的な概念でした。この意味では「蝦夷」にアイヌも含まれると考えられます。しかし、「蝦夷それ自身がアイヌである」、あるいは「蝦夷のすべてがアイヌの祖先である」と断定できるだけの証拠もありません。
 やがて、「蝦夷(えみし)」の中でも律令国家の支配がついに及ばなかった、東北北部から北海道にかけての蝦夷が、北方の蝦夷として特別視され、平安中期以降には、これが「蝦夷(えぞ)」とよばれるようになりました。現在では、蝦夷が「えぞ」とよばれるようになったころから、「蝦夷」がアイヌを指すようになったと見るのが通説のようです。ちなみに、アイヌと思われる「蝦夷」を記した初見は、1356年成立の『諏訪大明神絵詞』にあるとされています。 このように「蝦夷(えぞ)=アイヌ」は中世・近世に通用した概念で、これを古代蝦夷(えみし)にも当てはめるのは正確ではありません。 

 江戸時代初期、肥前国島原と肥後国天草の領民が帯同して起こした、大規模な百姓一揆を示す用語として「島原の乱」が一般的に用いられてきました。しかし「島原の乱」とすると、島原でだけ一揆が起こったような印象を与えます。確かに、領民が最後にたてこもった場所は、島原半島の原城でした。しかし、実際に一揆が起こったのは、肥前国島原と肥後国天草の各々の場所でした。このため、島原だけでなく天草を加えて、「島原・天草」と表記するようにしました。
 また、この一揆は、従来のようなキリスト教徒による反乱という見方だけでとらえるのではなく、領主の苛酷な圧政に対する大規模な百姓一揆というとらえ方もされるようになってきました。これまでキリスト教徒による反乱という点が強調されてきたのには、幕府がこの後いわゆる「鎖国」政策を強化し、人々に徹底して禁教政策を推し進めるよい口実にした、という背景がありました。しかし、当時の宣教師が、領主の圧政とキリスト教に対する苛酷な迫害に対する一揆と書き記しているように、近年では、百姓一揆としての性格も重視されるようになってきました。そこで「乱」ではなく「一揆」というように、その表現も改めています。 

 『慶安の触書』は、1649(慶安2)年に幕府が発布した法令として、明治時代に編纂された『徳川禁令考』に収録され、長く教科書で紹介されてきました。しかし、近年これは幕府法令ではないという説が定説となりつつあります。実は、『慶安の触書』は、早くからその存在が疑問視されていました。その理由は、『御触書寛保集成』をはじめとする幕府が編纂した幕府法令集に収録されていないこと、『五人組帳前書』などの百姓支配関係の文書に引用や反映がないこと、なにより慶安当時に幕府の法令として出されたはずの『慶安の触書』の現物が、全く発見されていないことが存在否定説の大きな理由でした。しかし、『慶安の触書』が幕府法令でないのならば、一体何なのかが不明なため長く幕府法令として扱われていました。
 近年になり、地域の史料調査が進むと、『慶安の触書』の原型と見られる文章が発見されました。それは17世紀半ばに甲州から信州にかけて流布していた『百姓身持之事』という地域の百姓に対する説諭的な教諭書をもとに、1697(元禄10)年に甲府徳川藩が発令した『百姓身持之覚書』という甲府徳川藩法でした。そして、当時の甲府徳川藩主は徳川綱豊で、のちの6代将軍家宣でした。
 これを『慶安の触書』として広く流布させた人物は、幕府の教育機関として昌平坂学問所を整備した林述斎でした。彼は、19世紀前半に自分の出身である美濃国岩村藩の藩政改革に関与しており、その際『百姓身持之覚書』を『慶安の触書』として木版印刷を使って領内に流布させました。この『慶安の触書』は、林述斎に縁のあった東日本の幕領の領主が採用して広く流布することになりました。そして、明治になり幕府法令として『徳川禁令考』に収録され、全国に流布したということのようです。
 以上のような経緯から、これは地域的な触書で、幕府による農民支配の一般的な事例ではないとして、現在では高等学校の日本史教科書をはじめ、中学校の教科書でも掲載されない傾向にあります。
参考文献:山本英二『慶安の触書は出されたか』(日本史リブレット38)山川出版社  2002年 

 戦後の歴史観の中心であった「唯物史観」では、「産業革命」を経て近代社会に移行すると考えられており、「それでは日本の産業革命の萌芽はいつからか」ということが長く議論されてきました。その中で日本の工場制手工業がイギリスの「マニュファクチュア」にあたると考えられ、これにより日本がいち早く産業革命に成功したという考え方が有力でした。そのため、「工場制手工業(マニュファクチュア)」という表記を使用してきました。しかし、近年は「唯物史観」からの脱却が進められてきており、日本とイギリスを結びつけて考える必要性も薄れてきたことから、この用語が使われなくなりました。また、教科書では、イギリスの工場制手工業(マニュファクチュア)にはあまり触れる機会がないため、日本の工場制手工業の説明の際に、あえてその用語を使用する必要もないと考えております。高等学校の日本史・世界史教科書においても、イギリスの場合に限り「工場制手工業(マニュファクチュア)」とし、それ以外の工場制手工業は単に「工場制手工業」と表記することが一般的になっています。 

 弊社では、「共和政」「専制君主政」など、政体のあり方を示す用語は、すべて「政」の字を使用することで統一しています。一般の国語辞典などでは「立憲君主制」と表記されていることもありますが、歴史の学術書や教科書で「専制君主政」「専制君主制」などと併用されています。「政」「制」のどちらも意味は同じですので、どちらの表記を使用するかは、各研究者、また各教科書会社が独自に判断しているのが実状です。以前は弊社でも、古代においては「共和政」、近代においては「共和制」を用い、時代による使い分けを行っていました。しかし、生徒の皆様が混乱してしまい、学習に混乱をきたすおそれがあることから、「政」の字に統一しました。近年、教科書では各社とも「政」を使用してきているようです。 

 文部科学省の国語審議会が発表した「外来語の表記」においては"Lincoln"は「リンカーン」と表記することが定められています。これを踏まえて多くは「リンカーン」と書き表します。ただし、この「外来語の表記」は、その他の書き方を否定するものではなく、必ずこれに従うべきものではない、との細則があります。
弊社では、グローバル化が急速に進展している現状を踏まえ、できる限り現地の読み方に近い表現で外来語を書き表しています。"Lincoln"は発音記号では"lˈɪŋkən"と表されることから、弊社では「リンカン」を日本語読みとして使用しています。
なお、現在発刊されている高等学校の世界史教科書でも、弊社を含めほぼ「リンカン」で表記統一されており、また中学校の歴史教科書においても、弊社だけでなく他社でも「リンカン」と記載している出版社があります。 

 ローズヴェルト(Roosevelt)の先祖は、17世紀にアメリカ合衆国に移住したオランダ系移民であったといわれます。"roo"という英語の綴りは、room(ルーム、部屋)、roof(ルーフ、屋根)のように「ルー」と発音されることが多いようですが、オランダ語ではこの綴りは「ロー」と発音されます。
弊社では、原則として人名・地名は現地語表記を使用していますが、アメリカ合衆国のような移民社会で、人名を現地語の英語風に表記するか、故国の言語風に表記するのかは難しい問題です。
近年、世界史の研究書や辞典類では、「ローズヴェルト」と表記するものが多く、今後こちらの表記が主流になるものと判断して、弊社もこちらの表記を採用しています。ただし、義務教育においては、「ヴ」の表記は基本的に使用いたしませんので、「ローズベルト」と表記しています。
  なお、高等学校の世界史教科書では、ほとんどが「ローズヴェルト」と表記されています。