- 中学校 歴史
<史料にみる歴史> 首里城の歴史と復興の動き
2025年度 後期号
◆史料にみる歴史
首里城の歴史と復興の動き
法政大学沖縄文化研究所国内研究員 上里 隆史
はじめに
かつて南西諸島に存在した「琉球王国」。その王宮であった首里城はユネスコ世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、また沖縄屈指の観光地として知られている。2019年10月31日の火災で正殿とその周辺建物が焼失したことは記憶に新しい。首里城の歴史と現在進められている復興の状況についてみていきたい。
首里城の歴史
首里城は南西諸島に点在する城塞的遺跡「グスク」のなかで最大級を誇る。その発祥は14世紀ごろと考えられ、現在の「京の内」という区画がその範囲であったと推定されている。当時、沖縄島は北山・中山・南山の勢力に三分される時代であり、首里城は中山王の居城であった浦添グスクの支城的役割を果たしていた。1406年、南山の一勢力にすぎなかった佐敷地方の按司(首長)の尚巴志が中山を倒した後、浦添から首里へと遷都し、首里城が王宮として整備されることとなる。その後、北山を倒し、1429年、南山を滅ぼした尚巴志によって沖縄島は統一され、琉球王国が成立した。
城郭は16世紀に増築され内郭・外郭の区画となり、正殿を中心とした主要建物は王国時代に3回の焼失と再建を繰り返し、正殿も板葺き、灰色瓦葺き、赤瓦葺建物とさまざまに変遷した。首里城は琉球王府の政治的中枢であるのみならず、さまざまな宮廷芸能が発展し、琉球文化の発信地としての役割も果たした。
近代以降の首里城
1879年、明治政府による琉球処分で国王は首里城を退去させられ、王国は滅亡した。1896年まで日本陸軍の熊本鎮台沖縄分遣隊の駐屯地となったが、その後は尋常高等小学校をはじめとした各学校の校舎として利用された。
一方で首里城は老朽化が進み、1923年に正殿の解体が決定する。これに対し琉球文化の研究者、鎌倉芳太郎がその中止を各方面に働きかけ、寸前で取り壊しを免れた。また、鎌倉は首里城撮影写真や詳細な記録を残し、戦後の復元の重要な資料となった。1925年、正殿は沖縄神社拝殿として特別保護建造物、1929年に国宝の指定を受け、1933年に大規模修理が完了した。
しかし1945年の沖縄戦では地下に日本の第32軍司令部壕が築かれたこともあり、米軍の徹底的な攻撃を受け灰燼に帰した。戦後は米軍統治下で城跡に琉球大学が建設されたが、沖縄県民を挙げて復元運動が起こり、大学キャンパス移転後の1986年、首里城公園として整備されることが決定、正殿など中心地区は1992年に悲願の復元が達成された。2000年にはユネスコ世界文化遺産として登録され、沖縄の代表的な観光地になった。
首里城火災と復興
2019年、首里城の正殿ほか主要建物が火災により焼失してしまった事件は国内外に大きな衝撃を与えた。ただちに復興の動きが起こり、2026年の正殿再建を目指して現在、急ピッチで建設が進められている。多数の寄付金も寄せられ、2025年3月時点で約61億円を超えた。令和の復元では「見せる復興」として建設の様子を公開、地域振興・観光振興への貢献を掲げ、地元とともに盛り上げ、未来に技術を受け継ぐことも目標としている。集まった寄付金は復元そのものに使われるだけでなく、「首里城未来基金」として、復元後の保存・修復技術を継承する若い世代の育成にも活用されている。復興に携わる宮大工や赤瓦、漆、彫刻職人などにも若い世代が多く参加しているのも特徴である。
「令和の復元」の特徴
また前回の復元から現在までに新たに発見された資料や研究に基づいて、首里城はより忠実で精度の高い姿となる。
外壁を塗る弁柄の材料は、発見された首里城修築記録から沖縄本島北部の名護市で採れた鉄バクテリアが生成した赤い顔料(久志間切弁柄)を採用し、前回より深みのある朱色の正殿となる。また現存最古の首里城写真の解析から正殿正面の唐破風のフォルム、正面口にある牡丹と唐草、獅子の彫刻も変更される。正殿玉座(御差床)2階に掲げられていた「中山世土」の扁額も、史料の記述から朱色から黄色に変更された。
おわりに
「令和の復元」では、平成復元の姿そのままの再現ではなく「バージョンアップ」を目指して復興が進められている。前回が沖縄戦で失われた琉球文化を取り戻す県民主体の「戦後史の課題解決」だったのに対し、「令和の復元」は沖縄の象徴の復興とともに、沖縄の枠を超えて世界遺産を保護する役割も加わっている。また第32軍司令部壕の保存・公開の声も上がっているように、王朝時代に限定されない首里城の展示方法にも再考を迫る契機となっている点も注目されよう。



