- 中学校 歴史
<史料にみる歴史> 浮世絵に描かれた江戸の芝居見物
2026年度 前期号
◆史料にみる歴史
浮世絵に描かれた江戸の芝居見物
法政大学 兼任講師 齊藤 千恵
江戸時代には、出版文化が花開き、さまざまな出版物が作られるようになった。浮世絵版画(以降「浮世絵」とする)もそのうちの一つである。浮世絵は当初、美人画と歌舞伎役者を描く役者絵を中心として発展する。明和期(1764~72)に絵暦(えごよみ)交換会の流行をきっかけとして木版多色摺の技法が発達し、浮世絵に用いられる色数が増えて「錦絵(にしきえ)」と呼ばれるようになり、ほぼ同時期に、役者を似顔絵で描く手法も定着する。喜多川歌麿や東洲斎写楽が活躍した寛政期(1789~1801)には、「大首絵(おおくびえ)」と呼ばれる、上半身をクローズアップした構図の流行もあり、浮世絵界は活況をみる。役者絵の作成の主流は、この時期、それまで中心的位置にあった勝川派から歌川派へと移る。初代歌川豊国(うたがわとよくに)(1769〜1825)は「役者舞台之姿絵」をはじめとする多くの役者絵を描き、同時に一門の育成にも注力した。その結果、これ以降幕末に至るまで、役者絵の分野では多くの歌川派絵師たちが座を占めることとなる。役者絵は当時、歌舞伎ファンのためのブロマイドやポスターに似た役割を果たすもので、歌舞伎の上演ごとにその舞台の一コマを描く絵が複数出版されるのが常であった。人気役者が没すると戒名や墓所、没年月日などを記した追悼のための死絵(しにえ)が出版され、その他、役者の日常の姿を描いた日常図や、理想の配役に扮した役者を描く見立絵(みたてえ)なども作られた。
さて、絵の方に目を移してみよう。
三代目歌川豊国作『踊形容江戸絵栄(おどりけいようえどえのさかえ)』(画像提供:東京都江戸東京博物館/DNPartcom)
この浮世絵は初代豊国の死後、役者絵の第一人者となった三代目歌川豊国(初代歌川国貞、1786〜1864)によって描かれたものである。江戸の芝居小屋の場内は、浮世絵のなかでも、西洋の遠近法を取り入れた「浮絵(うきえ)」と呼ばれる作品の格好の材料であった。極端な遠近法を用いることにより、舞台上だけでなく客席の様子までも細密に描かれている。実際に上演された舞台を写したのではなく、架空の劇場を想定して描いた見立絵である。なお、客席の構図には、文化期に出版された浮世絵から転用した部分も見受けられ、この絵が作られた安政期の芝居小屋の実態がどの程度反映されているかについては疑問も残る。
舞台では「暫(しばらく)」が演じられている。善男善女が悪者一味に捕らえられ、まさに首をはねられようとする時、「しばらく」の声が掛かり、柿色の素襖(すおう)を身にまとった主人公が登場して人々を救う勧善懲悪の芝居である。「暫」は江戸歌舞伎では11月に上演されるのが通例であったが、本図は、五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎、1791〜1859)が5年余りの間江戸を離れ、京阪・名古屋・伊勢などの芝居に出演した後、ようやく本拠地の江戸に戻った安政5(1858)年7月に作成されたものだ。海老蔵は舞台向かって右寄りで傘を差し掛けられた悪者一味の親玉格として描かれ、花道には海老蔵の息子・初代河原崎権十郎(後の九代目市川團十郎)が扮する主人公が見える。
天井からは役者紋の入った場吊り提灯が下げられ、客席は多くの観客で埋め尽くされている。左右に見える2階の上桟敷、1階の下桟敷や下桟敷手前の高土間(たかどま)席の手すりに赤い部分が見えるが、これは敷物としても用いた緋毛氈(ひもうせん)を掛けてあるため。芝居小屋内で緋毛氈を手すりに掛けるのは、その席に芝居茶屋を介して予約が入ったことを示すもので、桟敷や高土間の手すりが真っ赤に染まるのは、それらの高級席が大入り満員である証しだ。中央の枡席(平土間(ひらどま)席とも呼ぶ)は一般客席で、こちらも満員の様子である。舞台左奥にも客席があり、そこも大勢の観客で埋まっている。舞台を斜め後方から見ることになるこの席は、居並ぶ観客を五百羅漢像に見立てて羅漢台(らかんだい)と呼ばれ、その2階は桜の吊り枝などに近いことから吉野と呼ばれた。これらの席からは役者の登場前、退場後の姿までも見物できる。枡席や桟敷の通路には、料理や菓子などを運ぶ物売りの姿も見え、観客は飲食を楽しみつつ芝居を見物した。古くは切落(きりおと)しと呼ばれるリーズナブルな席もあったが、時代が下がると枡席が拡張され、安値で見物できるスペースは減少する。芝居見物は、庶民の娯楽とはいえ贅沢なものとなっていた。客席からは、財布の紐を緩め、久しぶりに江戸に戻った海老蔵を見ようとする人々の熱気が伝わってくるようだ。


