• 中学校 歴史

<史料にみる歴史> 鎌倉武士のふたつの暮らし 『男衾三郎絵詞』のなかの都と東国

2026年度 後期号

◆史料にみる歴史

鎌倉武士のふたつの暮らし

『男衾三郎絵詞』のなかの都と東国

早稲田大学社会科学総合学術院 教授 黒田 智

『男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)』は、鎌倉武士の笠懸(かさがけ)を描いた絵巻物として教科書になじみ深い。帝国書院『社会科 中学生の歴史』p.76~77では、武士の暮らしについて、中学生なりに読み取りを行い、まとめる活動が紹介されている。

坂東武蔵国にふたりの兄弟がいた。都の優雅な生活に憧れる兄・吉見二郎(よしみじろう)と、武芸一筋に励む武骨な弟・男衾三郎である。ふたりの鎌倉武士の暮らしと倫理観は、きわめて対照的である。描かれたふたつの暮らしの違いをみてみよう。

『男衾三郎絵詞』(『男衾三郎絵巻』)(重要文化財、東京国立博物館所蔵)部分 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

第一に門構えである。吉見二郎の屋形は築地塀(ついじべい)に囲まれ、檜皮葺(ひわだぶ)き屋根の門を入ると、藤のからまる松樹、庭先には桜や柳・梅が咲き乱れる。他方、男衾三郎の屋形は板塀に囲まれ、弓矢を蓄えた藁葺(わらぶ)きの倉を備える板葺きの簡素な門である。その門前では、「馬庭の末に生首絶やすな、切り懸けよ」と、従者たちが通りがかりの宗教者たちを引きずり込もうとする殺伐とした光景が広がる。第二に、二郎の屋形は春の景に彩られ、白い鳥や船がゆったりと浮かぶ池と庭園に、檜皮葺きの寝殿造風の邸内は黒格子の蔀(しとみ)と御簾(みす)におおわれ、琵琶や和琴などの管弦が置かれている。他方、三郎の屋形の門外に馬場が広がり、母屋の蔀も御簾も彩りはなく、そこここに大鎧や鎧櫃(よろいびつ)、胡籙(やなぐい)といった武具・甲冑(かっちゅう)が置かれている。第三に邸内の人びとに着目すると、二郎の屋形では歌会や囲碁に興じる男女、腹ばいで絵巻を広げる娘、笛や琵琶を演奏する人びとが描かれる。三郎の屋形の門外では、笠懸等の武芸に励み、中庭では弓張りや武具の繕いに余念がない。第四に描かれた兄弟の姿である。二郎は立烏帽子の真っ白い顔に小ぶりな目鼻をもち、胸紐のついた折り目のある大口の袖の直垂(ひたたれ)姿である。三郎はひしゃげた折り烏帽子姿で、褐色の顔に不揃いの眉と髭(ひげ)をたくわえ、装飾のない袖細の直垂をラフに着こなして、左膝を立てて蟇目(ひきめ)の矢を手に妻を見つめる。第五に兄弟の妻と娘をみてみよう。貴族社会において長い黒髪は美女の第一要件であった。二郎が京から迎えた美しい妻は、長い直毛の黒髪をもち、引目鉤(かぎ)鼻で下ぶくれの輪郭におちょぼ口である。他方、三郎が娶(めと)った「関東一の醜女(しこめ)」は、縮れ髪にとがった顎、大きなぱっちり目と高い鼻をもち、口も大きい。その娘も天然パーマのぱっちり目で、当時「醜女」とされた素質を遺憾なく受け継いでしまっている。

都の公家に憧れる優雅な暮らしと東国武士たちの武骨な暮らし。描かれたふたつの暮らしは、鎌倉時代の相異なる価値観をもつふたつの文化を浮かび上がらせている。

こののち大番役のために上洛する途次の遠江高師山(とおとうみたかしやま)で、二郎は山賊に襲われて落命する。従者が二郎の死を知らせに帰路につくなか、駿河清見関(するがきよみがせき)では、遠く海上に現われた観音菩薩の白毫(びゃくごう)から発した光明が討ち死にした二郎の首を照らした。しかし、三郎は兄から託された、荘園の一部と家を妻子に譲り渡したいという遺言を無視して領地と屋形を奪い、三郎の妻は二郎の妻子を下女として働かせて継子(ままこ)いじめをする。いわゆる継子いじめ譚(たん)のプロットから類推すれば、欠損した後日譚は二郎の妻子が観音の霊験によって救済されるハッピーエンドが予想される。

この物語は、都の公家文化に軍配を上げたことになるだろう。都びとたちの東国への侮蔑的まなざしは、「歌さへぞひなびたりける」(『伊勢物語』)と嘲笑し、「あやしう荒らかに田舎びたる心」(『源氏物語』)と軽んじる。しかし他方で、観音が二郎の娘を哀れみ、二郎の救済を約束した清見関は、都と東国という東西文化の交差点であった。関所の東では、巴(ともえ)御前や板額(はんがく)御前のごとき「猛き心」をもつ大力女の武勇が求められた(『吾妻鏡』)。東国社会では、彼女たちが「壮力の男子を生み、朝廷を護り、武家を扶(たす)け」(同前)る者として賞賛される異質の文化を確かに脈々と育みつづけていたのである。