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東経・西経はどのようにして決められたのですか。

 東経と西経を分けた理由について、正確なところは分かっていません。ただし、一般的に次のようなことがいわれています。
 かつてはそれぞれの国が緯度・経度について独自の表現方法をとっていました。しかし、国際交流がさかんになると、各国の表現がバラバラであることが大変不便になってきたため、どれかの方法に合わせることになりました(1884年「国際子午線会議」)。当時はイギリスが強大な力をもっていたため、イギリスが提唱した「イギリスのグリニッジを通る経線を『本初子午線』とする」ことに各国が同意し、イギリスが採用していた方法に統一することになったといわれています。イギリスが採用していた方法とは、本初子午線を境に東へ180°、西へ180°に分ける方法、つまり「東経」と「西経」でした。このように決められたのは、数が多いより少ない方が使いやすく、東と西をつけることで方向が分かるので便利であることによるといわれています。
 ちなみに、フランスでは、17世紀末からパリ天文台を通過する子午線(パリ子午線)を本初子午線とする経度(パリ経度)が用いられており、国際子午線会議でもパリ子午線を国際的な本初子午線とするよう主張しました。結局イギリスの主張が採択されましたが、フランス国内では20世紀初頭までパリ子午線を基準とする経度が用いられました。現在でも、フランスの一部の地図ではパリ経度が採用されているようです。
 いずれにせよ、当時の世界を制していたイギリスが、自らの国を中心に世界の位置づけを決めていた象徴的な遺産といえます。