〈写真・文 静岡県立掛川東高等学校 藤森 数正〉
 2015年12月から翌16年1月にかけ,中東を訪れる機会にめぐまれた。『地理・地図資料』2016年度1学期号(2016年4月14日発行)ではイスラエル・パレスチナについてレポートさせていただいたが,こちらではヨルダンを紹介する。

 
 アンマンの広場(アンマン)    アンマン城からのぞむ住宅地(アンマン)
 
トルココーヒーを煮出しているところ(アンマン)
 
アラブの菓子店「ハビバスイーツ」(アンマン)
 
 ローマ劇場(アンマン)    マクドナルド(アンマン)
 
   円形のフォルムの奥に列柱通りがのびる(アンマン)
   エル・ハズネ(宝物殿)(ペトラ)
 
 夜のモスク(ラマラ/パレスチナ)    モザイク工房のムハンマドさん(マダバ)
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 教会のすぐ近くにモスクがある(マダバ)  
   民族衣装を着たチェルケス人の男性の木彫り像を持つスィジャジャさん(アンマン)
 
 ワヒダット難民キャンプ(アンマン)  
 キング・フセイン・モスク前で(アンマン)
   
   市内のDVD店。コーヒー片手に夜中まで話題がたえない。棚には日本のアニメDVDも並ぶ(アンマン)
   
■ 雪
 元日のアンマンで雪景色を見るとは,思いもよらなかった(写真①)。もともと金曜日(イスラームの休日)ということもあり,市場(スーク)は早々に店じまい。「新年」という雰囲気もない。イスラームの暦(ヒジュラ暦)のうえでは,去る10月中旬が新年だったのだ。
 人口129万(2012年)を抱える首都アンマンは,ヨルダン・ハシェミット王国(人口667万/2014年)のプライメートシティだ。丘の斜面にクリーム色の家々がびっしりと立ち並ぶ景観は,「白い街」とも形容される(写真②)。
 旧市街の一角にあるダウンタウンという地区では,モスクを中心に市場(スーク)が立ち並び,人通りも多い。店の軒下にいすを出し,トルココーヒーを飲んだり,ガラス製の器具からのびたパイプで水タバコを楽しんだりしている男性たちをよく見かける(写真③)。近づいてあいさつすると「アフワン・ワ・ザハラン(ようこそ)!」という声。ほとんど例外なくニッコリ返事をしてくれ,「仲間に入れよ」と,シャイ(紅茶)やコーヒーが出される。そういうときは一度遠慮したほうがていねいだと聞いていたが,断ったらむしろ「そんなこと言うなよ」という顔をされた。
 アラブ菓子店は,夕刻になるとクナーファという菓子を求める行列でにぎわう(写真④)。軽食といえば,ファラーフェル(ひよこ豆のペーストでできたコロッケ)も人気だ。ホブズ(無発酵パン)の中に入れて巻き,サンドイッチのようにして食べる。
 そんな人々の手に必ずといっていいほど握りしめられているのは,スマートフォンだ。ヨルダンでの普及率はきわめて高く,FacebookやInstagramなどのSNSや,WhatsAppというインスタント・メッセージ・サービスが,老若男女問わず受け入れられている(写真⑤)。やりとりをのぞくと,宗教的・政治的なメッセージの発信源としても機能しているようだ。
 一方,西アンマンは高所得者層が多く,高層ビルやショッピングセンターが建ち並ぶ。オフィスやサービス業で活躍する女性も見かけ,多くはないがスカーフをまとっていない人もいた(写真⑥)
■ 古代文明
 東アンマンのダウンタウンの一角に,古代ローマ劇場の遺跡がある(写真⑦)。ローマ帝国の「五賢帝」の治世に建設されたこの劇場の最上階には,前国王・現国王・王子の肖像画が掲げられていた。隣国のシリア等と同様に,ヨルダンはこうした古代の遺跡も豊富で,アンマンの北約40kmにあるジャラシュには,ハドリアヌス帝の凱旋門や巨大なゼウス神殿の遺構がそびえ立ち,たいへん見ごたえがある。
 アンマンから砂漠を南に突っ切れば,有名なペトラ遺跡もある。アラビア半島と地中海沿岸との中継交易に従事した古代ナバテア人の都市だ。現在は,付近に居住するベドウィンが,ロバの馬車などで商売をしている。ロケ地となった「インディ・ジョーンズ」のテーマを口ずさむのは定番のよう(写真⑧)。ちなみに,2016年アカデミー賞®作品賞にノミネートされた「オデッセイ」のロケ地は,周辺にあるワディ・ラムだ。
■ キリスト教
 中東で夜に見かける緑のネオンの建物は,たいていモスクである(写真⑨)。
 ヨルダンのムスリムの比率は95%(2005年,平成28年度版『新詳地理B』p.261 ④「西アジアと中央アジアの言語とおもな国のムスリムの割合」)。こうしたモスクの数が多いのは当然だが,その他の宗教の礼拝所も見かける。キリスト教だ。そのうちのギリシャ正教徒が多く住む,マダバ(アンマンの南約30km)という都市を訪れた。
 市街の中心部に近づくと,みやげ物店に十字架やイエスのモザイク画などが置かれている。市街中心部の聖ジョージ教会の床面には,エルサレムが描かれたものとしては現存最古の地図とされる「マダバ地図」というモザイクがあることで有名。ヨーロッパからの巡礼者や観光客もちらほらいて,“Beer & Wine”という看板を掲げるホテルまである。
 聖マリア教会の近くにあるモザイク工房に立ち寄った(写真⑩)。没薬(もつやく)のにおいが,心地よい。モザイク画はタイルや樹脂のかけらを一つ一つ貼り付けていく根気を要する作業。壁にはキリストや聖母のモザイクに混じり,『聖コーラン』の聖句をあしらったモザイクもかけられている。工房のオーナーのムハンマド・バジャリーさんによると,先祖は19世紀末にパレスチナのベスレヘムから移り住んだのだという。「自分のいちばんの親友は,キリスト教徒だよ」と話す。街にはクリスマスツリーも飾られ,その近くにはモスクもあり,パレスチナのベスレヘムにも似た,独特な雰囲気をかもし出している(写真⑪)。
■ チェルケス人
 マダバからアンマンに戻り,路地にあるカフェに入った。ハラーム(イスラームの教えで禁止されている事象)であるアルコール類の代わりに,「カクテル」とよばれるジュース類が充実している。
 店内にはよく見ると,遊牧民風の木彫りの男性像や,山岳地帯で馬と並ぶ夫婦の写真など,少し見慣れないものが並べられている。
 オーダーを取りに来たのは,フセイン・スィジャジャさん(71)。「ちょっと見慣れない物ですね」と指さすと,「それはチェルケス人の文化だよ。私もチェルケス人だ」と話す(写真⑫)。
 チェルケス人とは,カフカス地方(現在のジョージアから見て北西)に住んでいた民族で,19世紀後半から20世紀初頭にかけて,ロシア帝国(当時)との戦い(激戦地の一つは2014年冬季五輪開催地のソチである)の後に,オスマン帝国(当時)の領内に移り住んだことで知られる。
 現在のヨルダンにチェルケス人が移住した経緯を,スィジャジャさんは地図を描きながら詳しく説明してくれた。
 第一次世界大戦後にイギリスの肝いりで,委任統治領トランス・ヨルダン首長国が成立した。現在ヨルダンの前身となるこの国家は,いわば“人工的に”つくられたといってもよい。正統性をもたせるために,白羽の矢が立ったのは,ムハンマドの直系ハーシム家の血筋を引くアブドゥッラー。その彼をアンマンに招きいれたのが,先にアンマンに移住していたチェルケス人だったのだ。そのような経緯もあり,現在でも軍人や警察関係者の中にはチェルケス人も多く,チェルケス人らが建設した壮大なモスクも目をひく。
 スィジャジャさんの父は,チェスケス人の社交クラブであるアル=アハリ・クラブを設立し,王室とも親交があったそうだ。ヨルダン王室を支えて「ヨルダン」をつくってきた自負と,チェルケス人としての誇りと気概を感じた。
■ 難民
 ヨルダンには,200万人以上のパレスチナ難民が暮らしている。アンマン市内にも複数の難民キャンプがあり,すでに立派な都市となった姿は歳月の経過を物語る(写真⑬)。
 市内のセルビス(乗合タクシー)で,ガザ地区出身の難民の一人,Bさん(25,仮名)に出会った。両親は,1967年の戦争(パレスチナ人はこれを「後退」(ナクサ)として記憶する)でガザ地区から逃れたが,親戚の多くを残すことになった。ヨルダン政府から2年有効のパスポートを発給されているが,ガザを訪れることはできない。現在は薬局に勤務する。「パレスチナに行きたい気持ちはあるけど,今はヨルダン国民でありたいと思っているよ」と,ヨルダンで生まれ育った難民二世の心中は複雑だ(写真⑭)。
 イラク難民もいる。ムハシーンさんは,2003年までイラクの首都バグダッドで地理を教える高校教師だった。現在はアンマンのホステルに勤務しているが,平和になったらイラクに帰りたいと願っている。お会いした日はちょうど第二子が誕生する直前で,いつもより早く仕事を終え,足早に病院へ向かった。
 そして最後に,現在進行中の内戦の影響を受けているシリア難民がいる。
 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると,ヨルダン国内で登録されているシリア難民だけでも65万人にのぼる(2016年5月26日現在)。北部にはザアタリ難民キャンプがあるが,ほとんどの難民は東アンマンをはじめとする都市部で,家賃を支払って生活している。UNHCRから現金の支給はあるが,就労は許可されていないので,鉄くず集めなどのインフォーマルな就労に従事せざるをえない人たちもいる。
 今やヨルダン国民の約10人に1人がシリア難民。道を歩けば,シリア難民に出会うという状態だ。
 古代文明,多様な宗教の共存,周辺諸国からの難民,来るものを迎える受容的な雰囲気(写真⑮)。そんなヨルダンのありようは,古来,この地域のたどってきた歴史的状況を映し出す鏡のようにも思えた。